【20世紀の東欧・中欧諸国旅・ハンガリー】ライク・ラースロー

20世紀の東欧・中欧諸国旅

冒頭の写真Wikipediaより引用

ライク・ラースローはハンガリーの共産主義者です。

外務大臣であったのですが、1949年5月に緊急逮捕されました。

その時の逮捕容疑は、「帝国主義者のスパイ活動」「ホルティ時代における秘密警察との協力関係」等です。

しかしこれらの罪は「スターリンの最も優秀な生徒」と称されたハンガリーの小スターリン、ラーコシ・マーチャーシュとスターリン本人によりでっち上げられたものでした。ラーコシとスターリンの描いたシナリオ通り、ライクは裁判にかけられ「自白」し、処刑されました。

今回の街歩きはそんなライク・ラースローがテーマです。

ライク・ラースローって誰?

1909年5月8日 オーストリア・ハンガリー二重君主国 セーケイウドヴァルヘイ
                            (現ルーマニア領)生
1949年10月15日 ハンガリー ブダペスト 没

最初にライクの生い立ちと裁判の経緯について簡単にお話しします。

ライク・ラースローは1909年5月8日にトランシルヴァニアで生まれました。

大学在学中に共産主義に傾倒し、ハンガリー共産党に入党しました。

若い頃はスペイン内戦や地下活動に参加するなど、アクティブな活動家でした。

第二次世界大戦後は共産党の指導部に加わり、政治の世界で活躍しました。

1946年3月に内務大臣に任命されます。

ライクはこの地位にいる時に悪名高いハンガリー国家保衛庁(ÁVH)を組織し、宗教を弾圧したり、国民の生活を監視したりしました。また、大規模な粛清にも加担しています。

1948年8月、ライクは突然より影響力の低い外務大臣に任命されました。これは直後にモスクワを訪れた時にスターリンの反感を買ったからだと言われています。そして、1949年5月30日、ライクは自宅において拘束され、緊急逮捕されました。

1949年9月16日、ライクとその仲間の裁判が始まりました。

ライクは裁判の場で、ユーゴスラヴィアの独裁者チトーとの繋がりを「自白」し、公の場でユーゴスラヴィア政府、チトーの罪が「暴かれました」。これがこの裁判の狙いだったのです(この当時、ソ連のスターリンとユーゴスラヴィアのチトーは決裂していました。ハンガリーはスターリン側につき、チトー政権を批判するためのメディア・プロパガンダを展開していました)。

法廷尋問はラジオで放送され、ライク・ラースローとその「仲間」2名に死刑が宣告され、翌月に刑が執行されました。

それに伴いライクの妻ユーリアも5年の懲役刑を受け、生まれて一年にも満たなかったライクの息子は特別養護施設に送られました。そこで彼はコヴァーチ・イシュトヴァーン(Kovács István)と名前を変えられ、誰も彼が処刑されたライクの息子だとは知らなかったとのことです。

ライクは1956年10月に名誉回復し、再葬されました。

ライクが監禁された建物|ブダペスト12区シュヴァーブヘジ(Svábhegy)の屋敷

Budapest, Eötvös út 48

ライクは5月30日未明、自宅で国家保衛庁に拘束され、ブダペスト12区の山シュヴァーブヘジ(Svábhegy)にあった国家保衛庁の秘密の屋敷に連行されました。

この屋敷は現在ノルマファ国立公園のインフォメーションセンターになっています。

ブダペスト市内からの行き方は色々あるのですが、セールカルマーン広場(Széll Kálmán tér)から21番か221番のバスで行くのが一番便利かなと思います。

昔の映像に残ったものと比較すると、屋根とバルコニーの形に当時の面影が残っています。

この屋敷でライクは自白を強要され、拷問を受けました。

ライクが拘束されていたのは3階だったとの事。残念ながら階段は上がれませんでした。

1956年に撮られたフィルムに写っていた屋敷は今よりももう少し大きく、地下室への階段もありました。現在の形にリフォームされたのはここ2010年前後だろうと思います。

このインフォメーションセンターにはあまり訪れる人がいないのか、営業時間と書いてあってもインターホンを数回鳴らさないとドアを開けてもらえませんでした。

建物の中には少しだけこの建物の歴史が少しだけ書かれたボードがありました。

ライクは自己批判として自分の過去に過ちがあったことはすぐに認めたのですが、スパイ活動容疑についてだけは受け入れることを頑なに拒否したと言われています。しかし酷い拷問を伴う尋問、心理誘導の末、最終的にはスパイ容疑についても認める結果となり、裁判でそれを「自白」しました。

余談ですが、このインフォメーションセンターの隣の敷地には古い門だけが放置されています。立派な門なので、この辺は昔は大きなお屋敷が並んでいたのだろうなと思いました。

この場所は国立公園の一部です。ヤーノシュ山までハイキングが楽しめるコースになっています。自然豊かで途中ブダペストを見下ろせる絶景ポイントもあり、天気のいい日にはオススメのお散歩コースです。ぜひぜひお弁当を持って行ってみてください。ヤーノシュ山からはリフトで下りられます(私はヤーノシュ山から徒歩で下山した時、鹿を見かけたことがありました)。子供電車があるのもこの場所です。

ライク裁判が行われた場所

Budapest, Magdolna u. 5

ライク・ラースローおよびその「仲間」の裁判は1949年9月に始まりました。

この建物がその裁判が行われた場所です。

ハンガリー鉄鋼金属労働者組合の建物で、現在もその組合の建物になっています。

正面に彫られている労働者の彫刻が見事ですね。

私が行ったのは休日だったので中に入ることはできませんでした。平日やイベントが行われる時は中も見られるのではないかと思います。ハンガリー鉄鋼金属労働者組合のHPに中の写真があるので、リンクを貼っておきます(サイト)。

このバルコニーのある広間でライク裁判は開かれました。

ライクの墓

Budapest, Fiumei út

ライクの名誉回復・再葬は1956年10月に行われました。

この1956年10月、ハンガリーにとって重要な事件が起きました。

そう、ハンガリー1956年「革命」です(1956年10月23日のデモ行進がきっかけで起こりました)。

この1956年という年は、当時のハンガリーの共産党(厳密に言うと、ハンガリー勤労者党)政権にとって大きな出来事が起こった年です(詳しくは拙著『亡命ハンガリー人列伝』をご覧ください)。

このライクの名誉回復・再葬も1956年「革命」の一つのきっかけになりました。

ライク・ラースローの墓はブダペスト8区のケレペシ墓地にあります。東駅から24番トラムで一駅の所にあります。

入り口を入ると案内板があります。ここにはライクの名前は入っていません。Googleマップを頼りに歩いてください(11-10-4/a.にあります)。

ライクのお墓は緑で埋もれています。

現在は妻ユーリアと息子ラースローも一緒に眠っています。

息子ラースロー(息子もライクと同じラースローです)は父親のライクが処刑された時、まだ1歳にも満たない年でした。父が処刑され、母も刑務所に入れられ、コヴァーチ・イシュトヴァーン(Kovács István)という名をつけられて共産主義者の児童養護施設で育てられました。母親の元に帰ることができたのは、1954年になってからのことでした。息子ライク・ラースローはその後有名な建築家になります。例えば、レヘル広場の市場を設計したのは、息子ライク・ラースローでした。

このお墓のライクは彫刻家のヴァルガ・イムレ(Varga Imre)が掘りました。

このケレペシ墓地にはライクのお墓以外にも見所がたくさんあるので、一部を紹介します。

  • カーダール・ヤーノシュのお墓
  • 労働者のパルテノン

彫刻が施された石版の後ろには、共産主義者たちの名前が彫られています。

  • デアーク・フェレンツ廟
  • コッシュート・ラーヨシュ廟

広大で自然あふれるケレペシ墓地。ハンガリーの著名な人々の多くがここに埋葬されています。ハンガリーの歴史上の人物に想いを馳せてながら墓地を散策するのも楽しいものです。

旧ライク・ラースロー通り

ブダペスト13区にライク・ラースロー通りがありました(1969年ー1991年)。現在はパンノニア通りと名前を変えています。

今でもレトロな劇場のネオンが道を飾っています。

ヴィーグ劇場の壁には、ライク・ラースローの記念プレートが掲げられていたのですが、2023年10月現在はそれは外されていました。

この道がライク・ラースロー通りと名付けられた日のセレモニーの様子が映像に残っていたので、リンクを貼っておきます。

Filmhíradók Online / Rajk László utca Budapesten
A Vígszínház melletti Pannónia utcát kegyeletes megemlékezés keretében, születésének 60. évfordulóján Rajk Lászlóról nevezték el. A törvénysértés áldozatául ese...

まとめ

残念ながらライクの住んだ家は見つけることができなかったのですが、引き続き調査していきたいと思います。

自らが組織した国家保衛庁に拘束され、自らも行ってきた粛清の手法で裁判にかけられ、最期を迎えたライク・ラースロー。名誉回復がなされ、スパイ容疑は晴れたのですが、その大量粛清を行った罪は消えることはありません。最期にスパイ容疑を「認める」形となったライクは、その刑が執行された時、何を想ったのでしょうか。

参考文献の一部

  • Бела Сас. Без всякого принуждения. История одного сфабрикованного процесса. Москва. 2003
  • Takács Tibor, A Rajk-per éve – Közelítések 1949-hez, KRONOSZ KÖNYVKIADÓ Kft., 2020
  • 木村香織(2019年).『亡命ハンガリー人列伝ー脱出者・逃亡犯・難民で知るマジャール人の歴史』. 合同会社パブリブ.

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