【20世紀の東欧・中欧諸国旅・ハンガリー】ラーコシ・マーチャーシュ(Rákosi Mátyás)

【20世紀の東欧・中欧諸国旅・ハンガリー】ラーコシ・マーチャーシュ(Rákosi Mátyás)20世紀の東欧・中欧諸国旅

ラーコシ・マーチャーシュ(Rákosi Mátyás)はハンガリーの独裁者です。「スターリンの最も優秀な生徒」と称された生粋のスターリン主義者でした。第二次世界大戦後のハンガリー政治の中で、ラーコシは自らの政敵を一人一人巧妙に排除していきました。その手段はハンガリー名産品であるサラミを一枚一枚切り落とす様子になぞらえ、「サラミ戦術」と呼ばれるようになりました。

今回のブダペスト街歩きはそんなラーコシがテーマです。

ラーコシ・マーチャーシュって誰?

http://mek.oszk.hu/01900/01906/html/index1804.html より引用

1892年3月9日 オーストリア・ハンガリー二重君主国(現セルビア領)アダ 生
1971年2月5日 ソ連・ゴーリキー(現ニージニ・ノヴゴロド) 没

最初にラーコシの生い立ちについて簡単にお話しします。

ラーコシ・マーチャーシュは1892年にオーストリア・ハンガリー帝国の片隅の街・アダで生を受けました。

生まれた時の名はローゼンフェルド・マーチャーシュ、ユダヤ人の家系でした。一家は1904年に名字をラーコシに変えます。

この当時、ハンガリーのユダヤ人の多くは苗字からその出自が知られるのを嫌い、苗字を変える事が多かったのです。

ラーコシは学生時代から労働運動に関心を持ち、学生運動に熱心に参加するようになりました。そして共産主義者としての知識を深めていったのです。

第一次世界大戦では東部戦線で戦い、ロシアの捕虜になりました。ラーコシがシベリアの捕虜収容所にいた時、ロシア革命が起きたのです。ラーコシは隙をついて捕虜収容所を脱走し、ボリシェビキと接触を図りました。ロシアで革命の風を肌で感じたラーコシ、その後捕虜交換でハンガリーへ帰国しました。

ラーコシは帰国後ハンガリー共産党に正式に入党し、1919年のクン・ベーラ政権でも活躍しました。しかし、その共産党政権はすぐに倒れてしまい、その反動で1920年代のハンガリーでは反共の嵐が吹き荒れました。ラーコシは逮捕され投獄されます。この後ラーコシは通算15年刑務所に収監されました。

1940年、刑期が終わったラーコシの釈放が決定されたのですが、当時のハンガリー政府は彼を持て余していました。ラーコシが釈放されても彼が反ハンガリー活動を行わないという確証がなかったのです。そんな時、ソ連から1848年のハンガリー革命時にロシアがヴィラゴスで奪ったハンガリー革命旗と交換にラーコシを解放するという打診があったのです。ハンガリー側はこれを承諾し、ラーコシはソ連に亡命しました。

第二次世界大戦中ラーコシはソ連に滞在し、ハンガリーに向けたラジオ・プロパガンダの仕事などに従事しました。

1945年1月、ラーコシはソ連の赤軍と共にハンガリーに戻ります。そしてハンガリー共産党の指導者となりました。

ラーコシは自らの政敵を次々に排除していくと、1948年ついにハンガリー勤労者党(ハンガリー共産党と社会民主党の合同)の書記長となり、権力を掌握することに成功しました。そしてハンガリーでスターリンの政治的手法を実践していきました。

国民にはラーコシへの個人崇拝を強要し、政府に都合の悪い「政治犯」は死刑、または強制労働収容所送りにしました。ラーコシの力が弱まるのは、1953年3月のスターリンの死以降です。

スターリンが死に、ソ連では政治的雰囲気が徐々に変化していきました。1956年2月、スターリンの次のソ連の指導者、フルシチョフがスターリンを批判すると、同年7月、「優秀な」スターリン主義者であったラーコシはソ連の圧力でハンガリーの政治の舞台から降ろされました。

ハンガリーで失脚したラーコシは、「病気療養」の名目でソ連に出国させられました。

初めはモスクワ郊外とクリミアの保養所で療養していたのですが、ラーコシの影響力を恐れたハンガリーの新指導者カーダールがラーコシをモスクワからより遠くに飛ばすことを要求しました。ラーコシは1957年にはモスクワから1500キロ離れたクラスノダールに、1962年にはさらに遠く、キルギスのトクマクに移動させられました。ラーコシはハンガリーに戻ることなく、最期はゴーリキー(現在のニージニ・ノヴゴロド)で人生の幕を閉じました。

ラーコシが1945年ー1949年に住んだ家| Zugló(14区ズグロー)

https://24.hu/kultura/2020/12/15/rakosi-matyas-zuglo-villa-ismeretlen-budapest/ より引用

住所:Budapest, Abonyi u. 23, 1146

ブハラ・ルイーザ広場(Blaha Lujza tér)から5番7番110番112番のバスに乗り、ラーコツィ通り(Rákóczi út)を真っ直ぐ進みます。装飾見事な東駅を通り過ぎ、「あれっ、少し街並みが変わった?」と思った後すぐのCházár András utca停留所で下車します。綺麗なお屋敷が並ぶサボー・ヨージェフ通り(Szabó József utca)を抜けて行くと到着します。

ラーコシは1945年1月に赤軍と一緒にハンガリーに戻りました。

4月、ハンガリー新政府機関がブダペストに移動すると、新政権のメンバーたちの住居が必要になりました。

しかし戦争で荒廃したブダペスト。ラーコシに提供する家を選出するのも大変だった想像します。

そんなラーコシが住居として選んだ家は、ブダペスト14区・ズグロー(Zugló)のサボー・ヨージェフ通り(Szabó József utca)とアボニィ通り(Abonyi utca)の角にある、尖塔の美しいお屋敷でした。

ここを訪れたのは10月。まだまだ暖かく緑が生い茂っていたため、美しい尖塔を持つお屋敷は木で隠れてうまく撮影ができませんでした。そのうち冬に写真を撮りなおしてUPします。

この建物がある地区は市民公園(Városliget)の南側に位置し、19世紀から20世紀初頭には裕福な人たちの別荘が並んでいた場所でした。しっかりとした造りの建物は激しい戦禍をも耐え抜き、現在でも装飾の美しい建物を見る事ができます。

4番の地下鉄で英雄広場駅で降りて、民族学博物館(Neprajzi muzeum)のユニークな建物を見ながら市民公園を抜け、この地区まで歩く散歩コースも気持ちいいと思います。途中、市民公園の中に音楽の家(Magyar Zene Háza)というコンサートホールがあります。この建物の設計は、日本人建築家の藤本壮介さんによるものです。市民公園の森と調和する美しい建物もぜひ見てみてください。

ラーコシが1945年から1949年に住んだこの建物は20世紀の初めに建てられ、ラーコシが住むことになった1945年までに所有者は幾度か変わりました。最後の所有者は1945年7月に警察に拘束されたとの記録が残っているのですが、どうやら戦後の混乱に乗じて政府がこの屋敷の所有権を没収したと推測されます。

ラーコシが1948年ー1956年に住んだ家|Istenhegy(12区イシュテンヘジ)

Budapest, Lóránt út 4b, 1125

1949年、ラーコシの独裁システムが確立すると、ラーコシの警備を強化する必要性が出てきました。そのため、ラーコシ夫妻は1949年5月、身の回りの私物だけを持ち、より安全な地域、ブダペスト12区にある屋敷に引っ越したのです。

ブダ側のセール・カルマーン広場から21番もしくは221番バスに乗り、南駅の方向に向かいます。バスは徐々に山を登り、車窓からは市街とはまた違った風景が見えるようになります。約10分走ったところでIstenhegyi lejtő停留所が見えてきます。そこで下車して下さい。

停留所からはブダペストを見下ろす風景が広がっています。

少しだけ来た道を戻り、ウクライナ大使館の角を曲がるとすぐに大きな屋敷が見えて来ます。

ラーコシ夫妻はここに1956年にソ連に移されるまで住んでいました。

現在は個人所有になっているため中を見ることはできませんが、外観は昔のまま残っています。

Youtubeでこのお屋敷の中を少し案内しているものを見つけたのでリンクを貼っておきます。ハンガリー語ですが、お屋敷の周りの雰囲気や中の感じがわかります。

チャンネル名:Grabant Ingatlan
タイトル:Hol élt Rákos Mátyás

Farkasréti temető|ファルカシレート墓地

Budapest, Németvölgyi út 99, 1124

ブダ側のセール・カルマーン広場から51番トラムに乗ります。ブダペスト南駅を超えると山を登っていきます。約15分走ると、広い敷地を囲む塀が見えてきます。その中央入り口の前にあるFarkasréti temető停留所で下車して下さい。

ラーコシは1971年にソ連のゴーリキーで亡くなります。

1956年にハンガリーを出てから1971年に亡くなるまでハンガリーに戻ることを許されなかったラーコシですが、死後に火葬され、遺灰はハンガリーに返還されました。そして、ブダペストのファルカシレート墓地(Farkasréti temető)に埋葬されました。ケレペシ墓地の労働者が祀られているパンテオン(Munkásmozgalmi Pantheon)に合葬する案もあったらしいのですが、それは後々問題になると却下され、ファルカシレート墓地の壁墓地に個別に納骨されるのが得策とされました。

現在、ラーコシの骨壷を納めてあった壁墓地の場所には、ラーコシの名が消されています。案内所で聞いたら、ラーコシの親戚が骨壷をどこかに移動させたとのことでした。

ラーコシの骨壷が納められていた場所を探すのは、名前が消されているため少し大変でした。両隣の番号を頼りにさがします。停留所から降りてすぐの正面入り口から入り、右の壁に沿って真っ直ぐ歩きながら、その壁際に設置されている壁墓地の名前を注意深く見ていくと見つかります。

ソ連で火葬されたラーコシはソ連の骨壷に納骨されました。ソ連の骨壷の規格は、ハンガリーの骨壷より高さがあったため、納骨壁のスペース1つ分では収まらなかったのです。そこで、上下2つの納骨スペースの間をぶち抜いて、ラーコシの骨壷を収めました。だからこの場所は上下2段の名前が入っていないのです。

以前のラーコシの納骨棚の写真。Dr Varga József撮影。Wikipediaより引用

ハンガリーにおけるスターリン主義の首謀者としてラーコシは国民に嫌われる存在であります。そんなラーコシの骨壷が納められている場所は、何回も赤いペンキがかけられたり汚物が塗られるなどの破壊行為に晒されてきました。そんな状況を憂いた親戚がラーコシの骨壷を引き取ったのかもしれませんね。

ラーコシには実子はいなかったので、親戚のうちの誰がどこに運んだのかは明らかになってはいません。しかし、ラーコシには十人以上の兄弟がいたので、彼らの子孫の誰かが引き取ったのだと推測されます。

このファルカシレート墓地には、バルトーク・ベーラのお墓もあります。ハンガリー音楽に興味のある方は、ぜひ探してみてください。

また、広大な敷地にたくさんの木々が植えられていて、四季を通じて美しいです。市街地の喧騒を離れ、墓地を散歩するのもたまにはいい息抜きになります。

まとめ

裕福なユダヤ人の家に生まれ、共産主義に傾倒し、若い時に15年間投獄されていたラーコシ。

1949年に権力を掌握してからスターリンの死の1953年までの約4年間、思いのままにハンガリーを治めたラーコシですが、ソ連では慎ましい生活を強いられていたと言われています。特に気候の厳しいキルギズのトクマクでの生活は、老齢に達していたラーコシにとって過酷であったことは想像に難くありません。

今回はブダペストで辿るラーコシ・マーチャーシュの痕跡でした。

参考文献の一部

  • Nemere István, “Én, Rákosi Mátyás. Egy zsarnok pályafutása”, Lazi, Szeged, 2019
  • Feitl István, “Ki volt Rákosi Mátyás?”, Napvilág, Bp., 2020
  • Мусатов В. Л. НОВЫЕ ДОКУМЕНТЫ О М. РАКОШИ // Новая и Новейшая история. – 2008. – Выпуск № 6 C. 169-184
  • 木村香織(2019年).『亡命ハンガリー人列伝ー脱出者・逃亡犯・難民で知るマジャール人の歴史』. 合同会社パブリブ

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