冒頭の写真、Wikipediaより引用
第二次世界大戦、ハンガリーは枢軸国として参戦しました。ハンガリーにいたユダヤ人の多くは強制収容所に送られました。
ブダペストからの強制収容所への移送が本格的に始まったのは1944年4月(地方ではもう少し早くから始まっていました)、ハンガリーにナチスのユダヤ人移送エキスパートのルドルフ・アイヒマンが赴任して来てからです。
そんな状況を見かねたのが当時中立政策をとっていたスウェーデン。スウェーデンは若い猪突猛進男、ラウル・ワレンバーグを外交官としてハンガリーに送り、そのユダヤ人を保護しようとしたのです。
今回の街歩きのテーマは、ラウル・ワレンバーグです。私の専門である第二次世界大戦後のソ連・東欧史とは微妙に言いづらいですが、私がワレンバーグに興味を持ったのは、ワレンバーグがソ連軍に拘束され、モスクワに送られてしまったという文脈からでした。
最初にラウル・ワレンバーグについて少し紹介します。
ラウル・ワレンバーグって誰?
1912年8月4日 スウェーデン・ストックホルム 生
1952年7月31日 ソ連・モスクワ(?) 没(公式認定)
ラウル・ワレンバーグ(スウェーデン語読みはヴァレンベリです)は1912年8月4日スウェーデンの金融・産業界で活躍し、外交官を数名輩出している名家ワレンバーグ家に生まれました。
両親を早くに亡くしたため、父方の祖父グスタフ・ワレンバーグ(スウェーデンの外交官であり、ラウル少年が生まれた当時は日本に駐在していました)が彼を教育しました。
ワレンバーグ少年は高校卒業後、アメリカ合衆国の大学に進学しました。
冒険好きで破天荒なところがあり、学生時代はヒッチハイクでアメリカ中を無銭旅行したそうです。この時に人々と交渉することを楽しんでいたと言われています。また、明るい性格で、友人と議論することも好きだったそうです。
ワレンバーグは大学卒業後はスウェーデンに戻り、貿易商、銀行家として働きました。その時に、ナチスの迫害を受けているユダヤ人の実態を目の当たりにし、大きな衝撃を受けました。ワレンバーグは1938年からユダヤ系ハンガリー人貿易商コロマン・ラウアーの会社で働くことになります。このコロマン・ラウアーこそ、ワレンバーグをハンガリーに派遣する人物として推薦した人なのです。
ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害の実態を知っていたワレンバーグは、外交官特権付与を条件にハンガリー行きを承諾した。ワレンバーグは1944年7月にブダペストに赴きました。
ハンガリーでは1944年4月からワレンバーグがブダペストに着任した7月までの間に、40万人を超えるユダヤ人たちが移送されていました。そのうち1万5千人はアウシュビッツに直接送られたと言われています。
ワレンバーグとその仲間のスウェーデン人外交官は、その経験から、ドイツ人たちが書類に極端な信頼を置いていることを知っていました。これを逆手に取り、スウェーデン名義の「保護証書」を発行することで、それを所有するユダヤ人たちをスウェーデンの保護下におこうと考えたのです。この「保護証書」は国際法的には全く効力のないものでしたが、一見正式なものであるように見えました。少なくとも、現場で指揮を執るドイツ人将校やハンガリー人役人には効果がありました。また、賄賂を使って認めさせたこともありました。この「保護証書」により、多くのユダヤ人たちをナチスの魔の手から救い出すことができたのです。
さらに、スウェーデン大使館は、ドイツ当局にこの「保護証書」を持っているユダヤ人をスウェーデン国民として扱うことを認めさせたのです。スウェーデン大使館はこの「保護証書」をできるだけ大量印刷し、ユダヤ人に配布しました。
ワレンバーグはナチス親衛隊の前でも一歩も退かず、「保護証書」を配り続けました。ユダヤ人が貨物列車に詰め込まれて移送されることを聞きつけると、ワレンバーグは駅に駆けつけ、親衛隊や矢十字党員たちの制止を無視し、列車の屋根にのぼって、まだ閉鎖されていないドアや窓から「保護証書」を配り続けたと言われています。そして、最後の「保護証書」を渡し終わると、「さぁ、証書を持っている人は列車を降り、向こうに停めてあるスウェーデン国旗のついた車に乗って下さい」と声を上げました。その場にいたナチス親衛隊や矢十字党の党員たちはあっけにとられたままであったと言われています。
また、ワレンバーグはブダペストに32棟の建物を借り上げました。そして外交官特権を利用して、その建物の治外法権を主張したのです。
建物の表には「スウェーデン図書館」や「スウェーデン研究所」の看板と大きなスウェーデン国旗を掲げました。しかしその実、それらの建物は「セーフハウス」と呼ばれたシェルターだったのです。そこに多くのユダヤ人たちを受け入れ、保護しました。この「セーフハウス」に匿われたユダヤ人は最終的に1万人に上ると言われています。
どんな手を使ってでもユダヤ人を保護しようとするワレンバーグの存在はもちろんナチス側にとっては邪魔で、ワレンバーグはたびたび危険な目に遭いそうになりました。しかし、それに屈することなく、ワレンバーグは1945年1月までブダペストで活動しました。
1944年末までにはソ連軍がブダペストに迫っていました。1945年1月、ワレンバーグはソ連軍指導者に会うためデブレツェンに向かいました。その後、ワレンバーグは消息を絶ってしまいます。分かっていることは、ソ連秘密警察によりスパイ容疑がかけられ逮捕され、モスクワに送られたことです。
ワレンバーグの遺体は現在に至るまで発見されていない。1957年にソ連当局はワレンバーグの死亡を公式に発表しました。ワレンバーグの死は、彼の失踪から71年後の2016年10月にやっとスウェーデン政府に認められました。そしてその死亡年月日が1952年7月31日と定められました。
今回の街歩きのテーマはワレンバーグ。ワレンバーグを偲びながらブダペストを歩いてみます。
地図の紫、赤、黄色のピンが指している場所がブダペストに残るワレンバーグの痕跡です。
紫、赤の場所はワレンバーグと直接関わりのある場所です。今回はここを辿るコースです。
黄色の場所は余力&興味があったら見て下さい。
今回のコースは長いのでたっぷり半日はみてください。
1944年のスウェーデン大使館
今回のコースはゲッレールト温泉の後ろ側にある元スウェーデン王国大使館の建物から始まります。
Deák Ferenc térから47番か49番トラムでSzent Gellért tér – Műegyetem M停留所で下車して下さい。坂道をゲッレールトの丘方面に登っていきます。
この建物は1944年にはスウェーデン王国大使館がありました。外交官として赴任してきたワレンバーグ、彼はここで仲間と共に知恵を絞り、「保護証書」を作成しました。
一見パスポートに見えるその証書はドイツ当局とハンガリー当局の目を欺くことに成功しました。その証書が発行されたのがこのスウェーデン大使館です。
ワレンバーグのオフィス(Zwack家の別荘)
ワレンバーグは早くも着任1ヶ月後にはネットワークを拡大し、雇用を増やしました。より大きなオフィスが必要となったため、ちょうど隣だったZwack家(ハンガリーの薬膳酒、ウニクムを製造しているメーカー)の別荘をオフィスとして借りました。
王宮の中のワレンバーグの協力者、フォン・ベルク家の邸宅
16番バスでブダ王宮の中に入ります。Szentháromság tér停留所で降りて下さい。
バスを降りるとすぐにマーチャーシュ教会が目に入ります。マーチャーシュ教会はどの季節でも空に映えますね。マーチャーシュ教会を堪能したらÚri utcaに入ってください。南へ真っ直ぐ歩くとすぐのところにあります。
ブダの王宮の真ん中に貴族であったフォン・ベルク家の邸宅がありました。この一家はスウェーデン王家と密接な関係があり、その影響でワレンバーグの活動を支援していました。
ワレンバーグの最初の住まい
さて、ここからは王宮の中を少し散歩します。
先ほどのマーチャーシュ教会から北の方向に向かいます。
北の端には荘厳なハンガリー公文書館の建物があります。この建物には戦争の時の弾痕も残っているので、探してみて下さい。生々しくて少し怖くなりますが、戦争をくぐり抜けてきた建物、歴史を感じられる場所の一つです。
王宮の北門、ウィーン門を出たらすぐの所にあります。
王宮の少し手前の静かな場所にワレンバーグの最初の住まいはありました。
社交的なワレンバーグはここでパーティーなども開催したということです。
時にはハンガリーの政府高官やドイツの将校をもてなすこともあったそう。ワレンバーグは保護したユダヤ人たちがより良い条件の元に暮らせるよう、交渉の機会を伺っていたのでしょう。
国際ゲットー
1944年11月、矢十字党が政権を取るとブダペストにゲットーが置かれ、ブダペストに残っていたユダヤ人はそこに入れられました。
ブダペストには2つのゲットーがありました。一つはブダペスト7区のユダヤ人街の「大ゲットー」。そしてもう一つは13区に置かれた「国際ゲットー」でした。
「国際ゲットー」は、スウェーデンなどの中立国が建物を借り上げ、ユダヤ人たちを治外法権の下に「保護」した建物が立ち並ぶ地域でした。
「大ゲットー」と比較すると「国際ゲットー」の状況はまだマシであったと言われています。
現在は静かな住宅街になっています。
- セーフハウスの一つ
この建物はスウェーデンの保護下に置かれ、ユダヤ人を一時的に保護しました。
このような建物はこの国際ゲットー内に限らずブダペスト中にありました。
現在は緑が多く、カフェが並ぶ一角です。
- ラウル・ワレンバーグ通り
セーフハウスからPozsonyi útを北に真っ直ぐ歩くとワレンバーグ通りに出ます。
- イシュトヴァーン公園のワレンバーグの銅像
ワレンバーグ通りを過ぎて、更に真っ直ぐ歩くと、ワレンバーグの闘いの功績を称えた銅像を見ることができます。大蛇で表されたナチスと戦う人の銅像です。
- スウェーデン保護下の病院
この建物にはスウェーデン王国とスウェーデン赤十字が運営する病院がありました。この建物の2階(日本で言う3階)には60のベッドが設置されていて、ここに病気のユダヤ人が収容されました。
ワレンバーグらが身を隠したオフィス
1944年の12月に差し掛かる頃、ワレンバーグはすでにソ連占領後のハンガリー系ユダヤ人のことを考え始めていました。ソ連占領下にあってもユダヤ人が保護される様、新しい支援組織を作る計画を立てました。その組織のオフィスにこの建物が適しているのではと考えたのです。
戦前は銀行として使われていたこのオフィス、ワレンバーグはブダペスト包囲中、この銀行の金庫室に隠れて凌いだそうです。
1944年11月からのワレンバーグのオフィス
1944年11月、矢十字党が政権を掌握すると、ワレンバーグはオフィスをペスト側に移す必要がありました。そんな時、戦前はオランダの保険会社として使われていた建物を借りることができました。
ここにはワレンバーグとユダヤ人の従業員とその家族が入居したそうです。
フェレンツ・ヴァローシ駅|ユダヤ人強制移送の出発駅
Wikipediaより引用
フェレンツ・ヴァーロシ駅はハンガリーにおけるホロコーストの象徴の一つと言えるでしょう。ここからアウシュヴィッツを始めとする強制収容所への移送が行われていました。
移送列車の発車は深夜でした。
そんな移送列車が出発する直前、ワレンバーグは車でフェレンツ・ヴァーロシ駅に車で乗り付け、できるだけ多くのユダヤ人に「保護証書」を配り、ナチス親衛隊の目の前で彼らを救い出したそうです。
フェレンツ・ヴァーローシ駅は現在整備され、記念館になっています(でも、この施設が開いているのを見たことはありません)。ブダペスト7区のブラハ・ルイーザ広場から28番か38番トラムで約5分、Orczy tér停留所で下車します。トラムを降りるとそこからダビデの星を形取った大きなモニュメントが見えます。
この辺りは少し怪しい雰囲気があります。昼間は危険はありませんが、夜暗くなってからあまり行かないことをおすすめします。
遠くからもダビデの星のモニュメントが見えるので、わかりやすいと思います。
記念館として整備されてしまった現在、当時の雰囲気を感じることは難しいかもしれませんが、駅舎は当時のものなので、歴史的にも意味がある建物だと思います。
ワレンバーグが最後に目撃された家
1945年1月にソ連軍がブダペストに入ると、16日に国際ゲットーが解放されました。
ワレンバーグはすでに戦後のユダヤ人保護のことを考えており、ユダヤ人の家族探しや住宅問題、医療サービスなとの細かい計画を立て、それをソ連の指導部と話し合う機会を持ちたかったのです。
ワレンバーグはその時ブダペスト6区ベンツール通りのこの家で生活していました。家の所有者はレジスタンスのメンバーであったハンガリー将校、彼もユダヤ人を救うために力を貸した人物でした。
ワレンバーグはこの家からデブレツェンのソ連赤軍本部に向けて出発しました。ブダペストでワレンバーグの姿が確認されたのはそれが最後です。
その他のワレンバーグにまつわる場所
- ワレンバーグの記念碑(5区)
- ラウル・ワレンバーグ ホロコースト記念公園(7区)
ブダペスト7区にはヨーロッパ最大のシナゴーグ(世界では3番目の大きさ)があります。このドハニ街シナゴーグの裏庭はワレンバーグの功績を称え、「ラウル・ワレンバーグ ホロコースト記念公園」と名付けられています。
シナゴーグを観光しなければ中に入ることはできないのですが、外から見ることはできるので覗いてみてください。
- ワレンバーグの銅像(2区)
2区の銅像へはセールカルマーン広場から61番か56Aトラムに乗って行くのが便利です。
トラムに乗って約5分、4つ目のNagyajtai utca停留所で降りたらすぐ目に入ります。私が写真を撮りに行ったのは冬だったので雪が残っていましたが、春から秋にかけては季節の花が銅像の周りを彩り、美しいです。
- ワレンバーグの肖像画が描かれたスタジオ(2区)
一枚だけワレンバーグ肖像画が残っています。
現在はスウェーデンの美術館に保管されていますが、その肖像画はこのスタジオで描かれました。
まとめ
今回はブダペストで見るラウル・ワレンバーグが生きた証でした。
無鉄砲さゆえにソ連の司令部に一人で赴き、スパイと誤認されソ連の収容所に送られてしまったワレンバーグ(ワレンバー拘束の経緯についてはいくつか説があります。ソ連の司令部に到着する前に拘束された、ブダペストですでに拘束されていたという説も残っています)。
彼のブダペストでの勇敢な行動を見るにつけ、その最期が残念でなりません。
彼の最期の場所は、消息が不明になって70年以上経った現在でも明らかになっていません。
今後調査、研究が進み、彼のソ連での足跡が明らかになることを願っています。
参考文献の一部
- 木村香織(2019年).『亡命ハンガリー人列伝ー脱出者・逃亡犯・難民で知るマジャール人の歴史』. 合同会社パブリブ
コメント